後継者に生まれて (2011年6月17日)

敬天愛人箚記

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私が後継者だったころの話です。一浪一留で大学を出た私は、24歳で親父が経営する建材会社に入りました。大学は法学部政治学科に在籍し、日々アルバイトに明け暮れていました。お陰で少しは世間慣れしていましたが、経営については何の知識もありません。まして会計など知るはずもありません。そんな私が30歳で社長になると決めていました。親父がすでに老齢だったからです。一日も早く社長になり、取引先、金融機関、社員を安心させなくてはとの思いでした。

当時私が会社を継ぐに際し、特に気を使ったことをお話します。一つは親父との相克、二つ目は社員との人間関係、特に親族の社員との軋轢でした。一つ目の親父との相克は厄介でした。まず、なかなか社長を譲ろうとしなかったのです。私の年が若すぎると、猛烈に反対しました。息子ということで、頼りなく思ったのでしょう。社長という立場に未練もあったのでしょう。大きな声をはりあげて、何日か話し合いが続きました。代表取締役会長と代表取締社長ならいいと親父が折れましたが、私はどうしても代表取締役は一人でなければだめだと押し通しました。最後には親父が譲ってくれました。無理やり社長の座から引きずり下ろしたことになり、今思えば、思いやりとやさしさが足りなかったと思っています。

二つ目は社員との人間関係、特に親族の社員には大変苦労しました。親父がまだ会社が小さいときに自分の兄弟の息子達を招き入れていました。身内の方が信用できるという考えでした。私が入社した時、25人の社員のうち、3人が身内でした。姉婿と2人のいとこでした。彼らの気持ちもわかります。長年一生懸命仕事してきたのに息子が急に帰ってきて、すぐに専務に、次は社長になった。面白いはずもありません。社員たちに私を社長として認めてもらうのにどうしたらいいのかいろいろ考えました。結論は、取引先で一番難しく、しかも取引が大きい先を私が直接担当することでみんなに認めてもらおうという事でした。外堀をまず埋めようとしました。そして外部での評価を上げ、社内に反映させようという作戦でした。結果、社員がどう評価したのか、別にして、少なくとも私自身、自信ができた事は確かでした。それから組織制度を作り直し、報酬も私が管理しました。しかし、どうしても身内との軋轢は止むことなく続きました。最後にいとこ二人には辞めてもらうことになりました。結局、私が一般社員も含め、彼らとのコミュニケーションに重きをおかず、一人よがりな経営をしていたのだと思います。

取引先との良好な関係を築くことはビジネス上当然の事ながら、社内での自分の立場を作るのに大いに利用しました。今思えば、社員に認めてもらいたいパフォーマンスでした。当時は財務内容もそれほど悪くなく、借入も少ない状態でした。田舎の事ですから30歳での世代交代が珍しく、大きな話題になりました。歳は若いがしっかりした経営者に見られたいという一心で金融機関と交渉して居たのを覚えています。

周りからはきっと若くて、とんがって、えらそぶって見えていただろうと思います。今の私があの頃の私に声をかけれるなら「そう肩肘はらんと、人生は長い、ゆっくりやれよ」っと言ってやりたいものです。