親子経営 繁盛と繁栄の秘策 その強さと真価 3 番頭さん (2016年2月10日)
ビジネスコラム番頭さん
中小企業経営者の悩みの一つが、右腕が欲しい、右腕になる者がいないということです。わたしが言う右腕とは、後継者ではなく、いわゆる「番頭」さんです。ここで言うのは、「番頭」でも「大番頭」を持とうという話です。
時代劇のドラマを見ていますと商家には必ずといっていいほど「番頭」さんが出てきます。大きなお店ですと大番頭さんがいて小番頭さんが何人かいたりします。今回はその「番頭」さんがテーマです。
大きなお店の「大番頭」さんというのは主人に代わりお店のすべてのことを取り仕切っています。お店に来られるお客さんはもちろんのこと奉公人すべてにまで常に目を光らせています。
主人がいなくても「大番頭」さんがいればお店は無事になんの問題もなく回っています。また若い跡取り息子の面倒まで「大番頭」さんがみていることがあります。公私に渡り跡取り息子のお世話をしています。
代が変わり跡取り息子が主人となっても跡取り息子が一人前の商人となるまでお傍に仕えてお店を取り仕切っています。このような「番頭」さんを私が子供のころにまだ見かけたような気がします。
時代とともに家族経営の会社が企業としての体裁を整えるにつれ「番頭」さんが専務取締役、常務取締役などに変わってきました。呼び名が変わるとともにその役割分掌も変化してきたようです。
私は親父の後を継いで30歳から建材会社の社長をしていました。そのころの悩みのひとつが、誰か右腕、片腕となる社員ができないものかということでした。当時社員数は20数名で身内社員が5名いました。
身内社員というのは一長一短がありなかなかに難しいものです。互いに身内ということでどうしても甘えが生じるものです。社内外の評判にもあまり良くないことが多くありました。
社長就任直後社内では四面楚歌の状況で、誰一人として相談に乗ってくれるものもいませんでした。社内の人間を引き上げ幹部に登用してみたものの私が期待する働きをしてもらうことが出来ませんでした。
若くして社長になった私は、なによりも取引先での評価を貰おうと必死でした。社員とのコミュニケーションを取る余裕など当時の私にはありませんでした。まして自分の手で幹部を育成することなどできませんでした。
そ んな私に右腕となる社員が3人出来たのは、その後20年近く経ってからのことです。ひとりは知人の紹介で、ある商社で支店長をしていた方でした。もうひと りは、ある大手企業の子会社を株式譲渡してもらったときのプロパーの方でした。最後のもうひとりは私が社長になってから採用した経理の社員でした。
その三人を得たときの喜びはとても大きなものでした。なにしろ、長年、文字通りひとりで経営してきたものですから、心から信頼できる幹部社員を得た嬉しさは、未だに忘れることができません。
今思い返せば彼らが私にとって「番頭」さんでした。彼ら「番頭」さんに全幅の信頼を抱いていましたのでそれからの私の動きがとても変わりました。彼らを得たことで自分自身に自信をもつことができ、おかげでそれまで以上に積極的に動き回れました。
最 後に論語より一節、「子、衛の霊公の無道なるを言う。廉子(こうし)曰わく、夫れ是の如くんば、奚(いか)にしてか喪(ほろ)びざる。孔子日わく、仲叔圉 (ちゅうしゅくぎょ)は賓客(ひんきゃく)を治め、祝鮀(しゅくだ)は宗廟(びょう)を治め、王孫賈(か)は軍旅を治む。夫れ是の如くんば、奚(なん)ぞ 其れ喪びん。」
「孔子が衛の霊公の不出来について語りました。廉子はなぜそれなのに衛は滅びなかったのでしょうかと問いました。孔子は仲叔圉が外交を為し、祝鮀が内政を治め王孫賈が軍事を掌握していたのだから何の問題も起こりえず、それ故衛が滅びることなどあり得ないと語りました。」
会社においても同じ様に各部署にしっかりとした「番頭」さんがいたならば社長が少々の羽目を外したとしても大きな問題にならないかもしれません。それも程度ものであるのは言うまでもありません。