日常という幸せ (2011年9月12日)
敬天愛人箚記敬天愛人語録にもどる
今までの人生で、この一年半ほど穏やかで、且つ充実した日々はありませんでした。2年前に白血病になり、一年半前に会社を倒産させましたが、この一年半は今までの人生のなかで一番幸せな時間かもしれません。何一つ、嫌なこと、悲しいこと、そして憤ることもなく、いいこと、嬉しいこと、そして楽しいことばかりがたくさんありました。私と妻と次女の三人が東京で暮らし始めたこと、次女が外資の企業に勤め始めたこと、長男がシアトル大学を卒業したこと、友人の支援があり新しく会社を興したこと、長女が一年半ぶりにニューヨークから帰国し私たちと暮らし始めたことなど、本当に嬉しいことばかり起こりました。日々の暮らしの中で次から次へと楽しいこと、嬉しいことが起こり、ありがたく思っています。日常のなかに幸せがいっぱいあることに気づきました。
以前の私なら、日々の忙しさにかまけ、妻と過ごす時間を大切にしようとか、共に居れることをありがたく思うとかなかっただろうと思います。子供たちと、またいっしょに暮らせることを、これ程強く嬉しく思うこともなかったことでしょう。長男の卒業にも、ねぎらうことや褒めることもなく、ましてや息子を誇りに思うことなどなかったでしょう。卒業の後の心配をして、あれこれと口をだして、文句を並べていたことでしょう。子供たちを心配するのではなく、自分の想い通りにさせたかっただけでしょう。子供たちのそれぞれの人生を尊重し、自主性にまかせ、そばから見守ってやることなどできなかったことでしょう。そんな愚かな夫であり、父親でした。
私は大病を患い会社を倒産させたことで、大切なことに気づきました。傲慢で独りよがりで自分勝手であったのが、たくさんの人たちの優しさや思いやりに触れ、それまでの自分の愚かさに気づかされました。以来、少しは謙虚で素直な人間になれたと思っています。自分が変わったことで、他人の見方が変わり、世の中の見方も変わりました。
すべての資産を失くし、破産者になりましたが、親戚に恵まれ、たくさんの友人に囲まれ、愛する家族とともに過ごせることに、何よりの幸せを感じています。幸せとは、何か特別な出来事で決まるのではなく、起きた出来事を自分がどう感じるか、どう考えるかという、自分自身の心の働き方、心の在り方によって決まるものです。
すべて物事は、自分の心次第で変わります。同じ出来事でも、どう解釈するかで、大きく意味が変わります。以前の私は、自分勝手で、自分に都合よく解釈していました。すべての判断基準は、自分にとってその出来事がどう作用するのか、自分にどう影響するのかがすべてでした。今の私は、こうして、ここにいることに素直に感謝しています。今、生かされていることに感謝し、残された人生を懸命に悔いなく生き抜こうと思っています。すべての出来事をあるがままに受け入れ、出来る限り前向きに、そしていい方向に進めるよう生きたいと思っています。