日系アメリカ人 (2011年8月18日)
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私にはたくさんの日系アメリカ人の友人がいます。多くがハワイ島に住んでいます。今では3世、4世の時代です。私の友人のなかには太平洋戦争を経験した方々がたくさんいます。ハワイ島ヒロは日系人が開拓した街で、今もたくさんの日系人が住んでいます。
移民の歴史は、1885年(明治18年)日本・ハワイ両国間の合意により949人の移民から始まりました。ハワイがまだハワイ王国の時代でした。126年に渡る歴史の間、ハワイ王国が倒れアメリカの属領となり、終にはハワイ州になりました。太平洋戦争中、ハワイにおいては日系の指導的立場にあった人々は強制収容所へ送られました。一般の人々は通常生活をおくることができましたが、祖国とアメリカのどちらに忠誠を誓うかを問われ、厳しい立場におかれました。戦後、市民権回復には時間がかかりました。
ハワイの私の友人たちは温和で優しく人情味豊かです。ビジネスにおいては堅実で忍耐強く積極的です。私はハワイ島にいく度、彼らに癒され励まされています。
さて、アメリカ本土で日系人として初めて下院議員になり、アジア系として初めて政府の閣僚になった日系アメリカ人がいます。ノーマン・ミネタ氏です。クリントン政権で商務長官、ブッシュ政権で運輸長官を務めた人物です。彼は1931年、日系2世としてサンノゼで生まれました。11歳の時、両親とともに日系人強制収容所(ワイオミング州ハートマウンテン)に入れられました。戦後、軍人を経て政治家への道を歩き出しました。1988年彼が力を尽くした、日系アメリカ人補償法が成立しました。レーガン大統領が政府として初めて公式に日系人の強制収容を謝罪し、補償が決定したのです。2001年9.11テロの時、彼は運輸長官の任にありました。事件後、アメリカ国内において、アラブ・イスラム系の人々に対し、ヒステリックな意見や偏重したマスコミの論調が見られました。特に、飛行場でアラブ・イスラム系の人々の手荷物検査を厳重に検査すべきという人種プロファイリングに対し、彼は断固反対しました。彼個人に対する中傷や非難に屈することなく、自ら信ずるところを貫き通しました。身の危険すら覚える状況のなかで、彼はアメリカ社会の根深い人種差別と闘っていました。かつて自分たち日系人が被った悲劇を再び起こしてはならないとの強い信念があったからでした。
私たち日本人は日系アメリカ人、ノーマン・ミネタ氏の名前を強く記憶に残すべきだと思います。彼は信念と勇気の人です。私の日系の友人たちとミネタ氏に共通するところは、彼らには他人を思いやる寛容の精神と己を律する強い信念がある、ということです。これからますます混沌とするアメリカ社会において、良識ある日系アメリカ人の存在と活躍がいよいよもって期待されます。